Saturday, February 20, 2016

大江健三郎を読み直す(57)「森のフシギ」と、大きい、ひとしずくの涙

大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』(岩波文庫)
1986年の出版時に読んだつもりでいたが、どうやら記憶違い。1986年に岩波書店から出ているが、私が読んだのは1990年の同時代ライブラリー版だ。2007年には講談社文庫に入り、2014年に岩波文庫版が出た。
1986年出版ということは、大江が51歳を迎える時期で、既に若くはなく、作家としての地位を確立し、大いに羽ばたき始めた時期でもあった。井上ひさし、筒井康隆との鼎談をまとめた『物語探し ユートピア探し』でも、3人が50歳を越えた飛躍期であることが繰り返されていた。
『万延元年のフットボール』で定置された四国の森の奥の神話と伝承の世界を、『同時代ゲーム』でより大きなスケールで描き直し、『新しい人よ眼覚めよ』を経て、本書『M/T』でふたたび同じ神話と伝承に新たな視角から光を当てつつ、拡大再生産して見せた。当時の読者の意識としても、『M/T』は『同時代』の描き直しバージョンだった。
私は当時、『同時代』を「国家論小説」として読んだ。井上ひさしの『吉里吉里人』、筒井康隆の『虚航船団』も「国家論小説」だ。その点では『M/T』は「国家論小説」的な性格が弱くなっている、と感じた。
しかし、大江の意識においては、あるいは文芸評論の観点からは、『M/T』の宇宙観と死生観に光が当たる。生きることと、生き直すこと、生まれることと死ぬことと生まれ直すこと。個人としては死は生の終りであるが、集団としては死は再生へとつながる一つの節目である。大江の定番の核時代論は本書には出てこないが、ナラティヴの問題に触れて、現在の大江は脱原発問題と繋げている。人が住めない地域をつくってしまう放射能汚染とは、再生を不可能ならしめる事態であり、「森のフシギ」を根こそぎ破壊してしまう。文庫版に掲載された小野正嗣の解説はこの論点を見事に表現している。しかも、それを初期大江から現在の大江までつなげている。なるほど、小説とはこのように読むべきものなのか。

「たったひとりの子供にも涙を流させないために、その流れるかもしれない涙をあらかじめ引き受け、代わりになって書くこと」――大きな、ひとしずくの涙を通して見える世界を再構築すること。